沿革

大正8年、電気工学科第6回卒業生

大正8年、電気工学科第6回卒業生

電気工学科は、明治44年1月九州帝国大学工科大学の開設と同時に設置され、学年進行に伴って講座が逐次増えて4講座(電力、電気機械、電気理論、有線通信)となり、学生定員20名を擁した。やがて、昭和4年に高周波工学講座、昭和16年に通信工学講座を加えて6講座の規模となった。しかし、大戦末期の昭和20年に3講座編成(通信伝送学・有線通信工学、無線通信工学・高周波電子管、電気通信材料、学生定員15名)の通信工学科が設置されるに際して2講座を振替えたため、電気工学科は4講座(電力工学、電気機器学、理論電気学、電気計測学・電気材料学)の規模に戻った。その後、戦後の困難な時期を経て高度経済成長期を迎え、電気関係技術者の需要の急増に応えて、昭和38年に電気工学科は一挙に、学生定員60名を擁する9講座編成(電気磁気学、電気回路学、電気物性学、電気計測学、電力制御学、放電工学・プラズマ工学、電気機器学、発変電工学・送配電工学、電気応用工学)に改組拡充された。

昭和10年頃の工学部通用門付近

昭和10年頃の工学部通用門付近

電子工学科は、トランジスタの発明にはじまる半導体技術や電子計算機技術の急速な発達によって技術革新が加速されはじめた昭和34年に設置された。講座は、学年進行に伴って、初年度に1講座(電子回路工学)、翌35年度に2講座(電子計算工学、電子制御工学)、昭和36年度に2講座(電子計測工学、電子物性工学)、昭和37年度に1講座(電子機器工学)増設されて計6講座となり、学生定員40名を擁していた。

情報工学科の前身である通信工学科は、その後、電子工学科が開設されたのとほぼ同時期の昭和36年度に、1講座(マイクロ波工学)の増設により4講座に拡充された。その後、昭和42年度に1講座(通信方式学)、昭和43年度に1講座(通信素子学)が増設されて6講座の規模となった。しかし、間もなく、半導体集積回路技術の発達と相俟って、計算機の進歩と普及が情報化の時代を招来し、わが国では情報工学科設置の気運が急激に高まった。これに対応して、九州大学では、昭和46年度に通信工学科を改組改名し、情報工学科を設立した。当初、6講座(情報回路学、情報系統論、波動情報工学、情報処理、情報機器、情報素子)、学生定員40名の編成であった。その後、昭和47年度に1講座(情報工学基礎)、昭和48年度に1講座(計算機ソフトウエア)の拡充を行い、8講座、学生定員40名の規模となった。

昭和11年の工学部キャンパス(本部・工学部本館・保存図書館は現存する建物)

昭和11年の工学部キャンパス
(本部・工学部本館・保存図書館は現存する建物)

昭和54年に九州大学に4専攻よりなる大学院総合理工学研究科が発足した。同研究科のエネルギー変換工学専攻の設置にあたり、電気工学科では、第九電気応用工学講座を振替え、第五電力制御学講座を協力講座とした。また、同研究科情報システム学専攻の設置に際して、電子工学科では、第二電子計算工学講座を協力講座とし、情報工学科では、第二情報回路学講座を振替え、第三波動情報工学講座を協力講座とした。
電気工学科、電子工学科、情報工学科は互いに関連する研究領域を有する学科として、それぞれの時代に応じて社会の要請に応えるために、改組拡充などの改編を重ねながら、緊密な連携を保ちつつ教育研究を行なってきたが、研究分野の多様化、社会からの需要の高まり、知能工学分野の拡大に呼応して、平成2年4月に3学科間で大幅な改組・拡充を行い、電気工学科(7講座;定員:55名)、電子工学科(5講座;定員:35名)、情報工学科(情報工学コース)(6講座;定員:40名)、情報工学科(知能システム工学コース)(5講座;定員:30名)に再編した。また各学科は特有の研究分野・カリキュラムを有するものの、3学科の学生はこれらの学科が提供する6つの課程を自由に選択できるように弾力性をもたせた。

昭和43年6月2日夜、米軍機ファントムが建設中の大型計算機センターに墜落炎上。大学紛争の端緒となった。

昭和43年6月2日夜、米軍機ファントムが建設中の大型計算機センターに墜落炎上。大学紛争の端緒となった。

平成8年本研究科発足と同時に、電気工学科、電子工学科、情報工学科の全講座は本研究科知能システム学専攻、情報工学専攻、電気電子システム工学専攻、電子デバイス工学専攻に移り、3学科は電気情報工学科という一つの学科に統合された。

 
 
(大学院システム情報科学研究科自己点検・評価報告書1999年版より引用。
写真は「写真集九州大学史(九州大学創立75周年記念事業委員会編)」より引用)